Published: 2025年10月24日
21世紀の日本。成熟し切った商品経済の世である。
この商品経済の中で、人々は商品を持ち寄り、お互いに交換しあって生活している。
今、あなたが家の中に居るとしたら、視界に入っている物はおそらく全部商品だ。人間が作った人工物である。
それら目に入る商品のひとつひとつに、これを生み出した企画者がいて、設備を揃えた資本家がいて、過酷な労働力投入に耐える勤め人がいる。
渋谷のスクランブル交差点で大量の人間を目にした時、「こいつら一人ひとりにも、人生と言うバックグラウンドがあるんだ」と、はるか想いを馳せるのに似ているかもしれない。
各商品も事情は同じで、まことに気が遠くなる。
この商品交換のフリーマーケットの中にあって、労働力を商品として持ち込んでいる人々というのが、ご存知、勤め人である。
働いてない人はどうして働かなくていいのか?と言うと、労働力以外で何かの商品を持っているからだ。
かつ、その商品が資本主義経済の中で交換に値する魅力を具えているからである。
極端な例だが、中東の石油王なんかがそうだろう。
働かなくても、石油という商品を所有している。石油と交換にして、どんな商品でもゲット出来てしまう。生活に困る事は無い。
インドのマハラジャたちも、面白い商品を持ってる。
ご先祖さまが藩王だった頃に持っていた王宮を、ホテルに改装して、旅行客および観光客に貸しているのだ。
王宮(ホテル)と言う商品があって、これを資本主義という巨大バザーに持ち込んで、様々な商品と交換にしている。
ここでキモとなるのは、石油も王宮も、商品に仕立ててマーケットに出さないと何の価値も生まないと言う事である。
と、考えると、勤め人が持ち込む労働力と言う商品は、星の数ほどある商品の一つでしか無い。実に相対的なものだと言えるだろう。
勤め人の世界にどっぷり浸かると、あたかも勤め人になって、労働力を売る以外の生き方なんか存在しないんじゃないか、と思ってしまうのであるが、そんな事はぜんぜん無い。
自分で商品を作ればいい。そしてマーケットに持ち込む。
巨大なフリマの中で、誰かが欲しがってくれるような、交換に値するような、魅力のある商品を作るのである。
どんな商品が良いか?と言う話が気になると思う。
僕は商人としてまるで才覚は無いのであるが、やっぱり一つだけ言えるのは、似たような商品はダメだって事だ。
商品経済の本質は交換にある。
米と米を交換しても意味が無い。
米とプロテインシェイクを交換するから意味がある。
労働力とセックスを交換するから意味がある。
人が商品を持ち寄って交換をしようとした場合、『差異』こそが交換のための根本動機になる。
交換する商品と商品の性質がかけ離れていればいるほど、お互いの利得は向上するのである。
我が不要を便じて、他の要を達す、である。
差別化だとかブルーオーシャンだとか、勤め先でうんざりするほど聞かされているので、僕の中でははっきりと死語なのだが、『差異』が無いと誰も交換に応じてくれないって事だ。
ちなみに、お金でセックスは買えるか?と言う問いであるが、商品としてのセックス、もとい労働力としてのセックスならば、それがマーケットに出品されているとして、買う事は可能である。
労働としてのセックスには心が無い、と言われると、その通りだと答えるしかない。