Published: 2025年8月28日
金融業勤務2年目の年の瀬に、祖父が死んだ。
祖父は筋金入りの吝嗇家で、生前、何かの強迫観念に追われるかのように金を遣わず生活し、ド田舎の地方公務員としてはかなりの額の遺産を残してこの世を去った。その財産は母が相続した。
僕の両親は
「これで老後の心配はなくなった」
とほっとしたであろう事は想像に難くない。
親たちもまた普通の勤め人であり、勤め人は構造的な宿命によって、給料の多寡に関係なく、余剰のお金を持てない。
「今、亡くなりました」
と、僕は上司に告げた。
「おう。ご愁傷様。帰っていいぞ」
以前から祖父が危篤の状態であることは相談していたから、スムーズに帰宅の許しが出た。お通夜は明日、葬儀は明後日。忌引きの休暇は3日間だから、年末年始の休みと繋がる。
思えばまとまった時間なんか無く、ひたすら走り続けてきた2年間だった。
ここで一度、自分の人生を整理して考える時間を持ちたいと思っていたところだった。
「お先に失礼します。よいお年を」
挨拶もそこそこに、僕は弾むボールの様になって、そそくさと会社を後にする。
会社に残り、地獄の釜で茹でられ続けている先輩や同期たちは、歯噛みせんばかりに恨めしそうな表情で、僕を見ていた。
「なんで俺たちはこんなに苦しいのに、小僧のお前が帰れるんだよ…?」
「通夜は夕方で葬儀は昼なんだから、合間に会社来れるだろ?」
「規定通り3日もフルで休む奴なんか聞いたことねえぞ、会社舐めてんだろ?」
などなど。
不満があれば、目下の者には直接言っていい会社だ。これらは実際に言われたことだ。
『親の死に目には会えない、子の葬式には行けない』
あの業界で、まことしやかに囁かれていた都市伝説ではあったが、事実、上司は仕事を優先したがために親族に不義理をしていた過去を悔いているとかなんとかで、忌引きには寛容だった。
ともかく、これで時間を得たのだ。今までの休日と言えば体力を回復させるためにひたすら寝ていて、ゆっくり自分と対話する時間なんか少しも無かった。これもお爺さんのご加護に違いない。
会社を出ると、空は青く快晴で、まるで秋の日の陽気のように暖かだった。
ストリートは年の瀬の買い物客でにぎにぎしくなっていて、僕は街路樹の間から差し込む暖かな木漏れ日を次々に浴び、自宅を目指す。
ペダルを漕ぐ足は軽い。
正月は旅行にも行かない。親族の不幸という正当な理由があるから。
時間があるぞ。
小躍りしたい気持ちになった。
ちなみにだが、あの職場には、長期休暇に自宅に引きこもって過ごす事を許容しない雰囲気まである。年次が進むと、金なんか無いのに、正月は南の島でゴルフして過ごさないといけない様な設定になってる。
金が無い上に更に金を使い果たして、ひどい事になるが、あそこでは、お互いの貧窮を監視し合い、強制し合うのが美徳なのだ。
馬鹿げた散財を『大物の風情あり』と称揚し、堅実な蓄財を『ケチだから数字できねえんだ』と蔑む。
俺たちみんな苦しんでいるのに、あいつだけ楽をしている、そう言う現象がとにかく我慢がならないらしい。他人が気になって気になってしかたがないのだ。
(そんなもん、個人の自由だろ・・・。)
という僕の意見は全て、
「お前のほうが非常識」
と、一笑に付されたものであった。
確かに社会不適合のクズの自覚はあったので、その時は「そんなもんか」と思ってもみたものだったが、しかしその後『社会経験』というやつを積み、あながち自分の考えは間違っても居なかったと今なら思う。
祖父の葬儀は、家族だけで行う簡素なものであった。
呪詛の言葉を投げつけられながらゲットした3日間の時間は、大事に大事に使わねばならぬ、と思った。
そこで僕は、社会人になって絶えていた習慣である日記帳と日記書きを再開させた。何が不満で、自分はどうありたいのか、それにはどうすればいいか、コーヒーを飲みながら日がな一日中、考えては書き、書いては考え、かつての年末年始を過ごしたのであった。
日記の効用は実に、驚嘆すべきものであった。
つづく。