Published: 2025年11月8日
お釈迦様が人間を苦しみから救うために開いた仏教は、時間をかけながらも東アジア全体に伝播した。
ところがである。
仏教は広まったかのように見えて、実は広まっていない。
政治家などのエリート層は仏教に帰依するものの、下々の階層まで浸透しないのである。
なぜか?
「厳しい修行によって感情をコントロールせよ」と言われても、それが出来ない人間が居るからである。
ご承知の通り、本場のインドでは庶民の間で広まっているのはヒンズー教であった。
エリート層は仏教、庶民はヒンズー教、という住み分けである。
ここからが本題なのだが、日本の仏教。
飛鳥時代に入ってきた仏教は、聖徳太子とか蘇我氏とか、日本の政治の中核になるような人々の間で信仰された。エリートの為の仏教である。
奈良時代、聖武天皇は怨霊にビビりまくるという弱い性格の持ち主えあられたため、仏教の力で怨霊の祟りを鎮めようと物凄い頑張ったお方なのだが、この頃の仏教も庶民まで浸透していない。
全国に国分寺や国分尼寺を置いたのも、怨霊鎮圧のための装置であった。
お釈迦様は「大仏を造れば怨霊が鎮まる、天皇家は守られる」なんて言った覚えは無いに違いなかったろうがね。
平安仏教と言えば、最澄の天台宗、空海の真言宗があるが、お坊さんは厳しい修行に打ち込んでいた。依然として貴族階級がメインである。
時代は進み、中世の仏教。いわゆる鎌倉仏教。
これが興味深い。
鎌倉幕府の三代目執権の北条泰時(※シヴィライゼーションⅥの日本のアイコンは北条時宗)は熱心に禅宗を信仰していた。
座禅を組んで、感情のコントロールの修行をする。お釈迦様の教えに
結構近いと思う。
北条泰時は、素晴らしい人格と優れた政治手腕を持った、パーフェクトな人間であったらしい。修行の成果もあったのであろう。エリート教育を目的とした仏教である。
ところが、中世には庶民のための仏教なるものが現れた。
「南無阿弥陀仏」
を唱えれば死後極楽にいける、と説くのである。
このお手軽さ、このインスタントな教義が、庶民の間に物凄い勢いで拡散していった。
常陸の国(今の茨城県)に唯円坊というお坊さんがいて、
「本当に南無阿弥陀仏って唱えるだけで極楽行けるんですか?それガチですか?」
と、わざわざ京都に居る親鸞上人のもとまで、教えを確認しに行った人が居た。
もうお爺さんになっていた親鸞上人は、
「ガチやで、南無阿弥陀仏って唱えるだけでええよ」
と答えた。
唯円はそれでも気になって
「せめて、経典読んで仏の教えを知らないといけませんよね?」
と聞いたが、
親鸞上人は、
「そんなもん一切要らへん。南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽に往けるねん」
と答えた。
唯円はマジかなどと思いながら、
「セックスはしてもいいのでしょうか?」
と聞いた。
親鸞上人は、
「どんどんパンパンしなさい。ほんまに南無阿弥陀仏と唱えるだけやから」
と答えた。
と、まあ、これは歎異抄という本の話である。
ちなみにセックスのくだりは僕の創作であるが、親鸞上人は片手では収まらない数の奥さんを貰っており、70歳過ぎても子どもを作っていたので、おそらく上の様に答えたに違いないと思う。
このように、仏教にもエリート向けの仏教と、大衆向けの仏教がある。
仮に、資本主義を一つの宗教としてみよう。
資産形成法と言うのはエリートにしか実践できない教義である。倹約、勤勉、再投資。
大衆にいくら倹約と勤勉の資産形成法を説いても、結局は出来ない人が出てくる。すぐにお金を浪費しちゃって、タネ銭はいっこうに貯まらない。
ならば、大衆相手には大衆向けに、「ウダウダ考えずにお金使いまくろうぜ!」と説くのである。強欲、消費、虚栄心の教えである。
これなら大衆でも実践が容易だからだ。
続く!